カテゴリー別アーカイブ: 八王子の歴史

八王子の歴史のことが分かります。

八王子の花火大会

浅川河川敷

浅川河川敷

 八王子の花火大会は今月 7月30日(土)開催予定。

 午後7時~8時30分まで。

 場所は富士森公園野球場、
 今年からの名称は「ダイワハウススタジアム八王子」です。

 荒天の場合は翌日、31日に順延とのこと。

  ★ 平成28年 八王子花火大会の概要はこちら  

 

 ≪ 八王子の花火大会の歴史 ≫
 
 1917年(大正6年)の八王子市の市制施行時に
 「浅川の河川敷」でお祝いの花火があげられました。
 このとき、洪水に見舞われて準備していた仕掛けなど
 が流されるなどの被害を受け、延期となったそうです。
 そして、延期された花火大会当日は、河川敷を埋め尽
 くすほど、市民が駆けつけて、市制行をお祝いした
 という歴史があります。

 浅川の河川敷から、富士森公園の野球場に
 移ったのですね。。

 今年の花火大会も夏の風物詩となり
 八王子市民を盛り上げてくれるでしょう。
 期待しています。

多賀神社からはじまった八王子まつり

多賀神社

多賀神社

 いよいよ、明日から八王子まつりがはじまります。
 
 八王子の街は、お祭りの山車やお神輿のため
 道路や交通の整備や準備をはじめていました。

 こちら元本郷にある「多賀神社」もお祭りの
 準備がはじまってきているようですね。
 ちょうちんが飾られています。

多賀神社

多賀神社

 国土創造の神である「イザナギノミコト」と「イザナミノミコト」の
 二神を祭神としている滋賀県の多賀大社から分祀しており
 イザナギ・イザナミの両神を祀っているのは東京で唯一こちらの
 多賀神社だけだそうです。

 多賀神社がこの地に天慶元年(983年)に作られ
 千年以上にわたり地元の人たちに崇敬され続けている
 長い歴史がある由緒ある神社です。

 その多賀神社が最も大切にしている年中行事が
 8月に行われる例大祭。
 江戸時代より継承された伝統ある神事であり
 「上(かみ)の祭り」と称される多賀神社の例大祭が
 「下(しも)の祭り」と称される八幡八雲神社の
 例大祭とともに、八王子の祭礼を二分していました。
 従来は、多賀神社の例大祭は8月15日、16日に
 わたり執り行われていたのが、昭和42年以降は
 八幡八雲神社の例大祭とともに「八王子まつり」と
 合同で開催されるようになったそうです。

 多賀神社の大神輿は「千貫神輿(せんがんみこし)」と
 呼ばれる約4トンもの重量がある大神輿だそうです。
 千貫神輿が甲州街道を行く様子は大迫力があり
 八王子まつりの大きな見どころのひとつとなっています。

 歴史を知って、八王子まつりの神輿を見に行くと
 また一層に楽しめそうです。

 

 ★多賀神社★
  八王子市元本郷町4-9-21
  042-622-8605

 
 

明神町は水の町だった

現在の子安神社

現在の子安神社

 大正6年 八王子市が誕生したときに八王子市明神町も誕生。
 その頃は、まだ子安神社の東側から浅川堤防まで見渡す限り
 田んぼが広がり、のどかな田園風景が続いていたそうです。
 現在の「第四小学校」は当時はまだなく、周辺は桑華織物の
 工場だったとのこと。

 大明神の池や今の東町付近から湧き出た水は小川となって
 町内を西から東へ廻り多くの水車をまわしていた。
 その他にも湧水はいたるところにあり、まさに周辺は
 「水の町」を呈した。

 駅前通り 東側あたりを水源とする湧水が2m、深さ1m
 程もある川となって流れ、うなぎやどじょうも摂れていた。
 初夏にもなると周辺では蛍が飛び交っていたようです。

 大明神の池はいつも豊富な湧水があったようです。
 
 大明神の池は大正の頃 八王子名所として歌われた俗謡に
 も出てきていた。
 
  ~  春は安土のツツジ園
     夏は大明神でホタル狩
     秋は高尾のモミジ山
     冬は新地で雪見酒     ~ 

 今は池も湧水も姿はありませんが、
 大切な歴史が眠っていたことを知ることができました。

    

八王子市は「桑都」

「絹の道」

「絹の道」

 八王子市は以前「桑都」と呼ばれて親しまれていました。
 北原白秋作の「八王子市歌」に「桑の都」が登場し、
 平安時代の歌人西行法師の歌としてもつぎの歌が伝え
 られています。

  あさかわの わたれば ふじの かげきよく

            桑の都に あおあらし ふく

 また、戦国時代に、北条氏照は滝山城から八王子城に
 城を移しその城下を歌ったとされる「八王子八景」の和歌が
 あり、その一つに「桑都青嵐」という歌があり、ここでも
 「桑の都」が歌われています。

 桑の都・・・・・養蚕が盛んであったことがわかります。

  蚕かふ桑の都の青あらし

           市のかりやにさわくもろびと

 八王子は「桑都」として表現されて和歌に残っています。

 

大和田橋 弾痕の跡

 浅川が流れる大和田橋は、昔むかし戦争の時に
 焼夷弾から身を守るため、大和田橋下に駆け込ん
 だ多くの人々の命を救ったという橋です。

 その大和田橋に残された弾痕が2ヶ所保存
 されています。

 その上を私たちは行き来し通りすぎているの
 ですが、このことを歴史を知ってから大和田橋を
 通ると、また気持ちが引き締まるような気がします。

 この大和田橋は長年に渡って八王子の風景を
 見続けているのですね。

 これからも、この先も。

 

大和田橋

大和田橋

大和田橋

大和田橋

 両方の歩道にそれぞれ1箇所 弾痕が残されています。

大和田橋 弾痕

大和田橋 弾痕

大和田橋 弾痕

大和田橋 弾痕

  
 「焼夷弾・弾痕の保存について」

 八王子市は太平洋戦争終結の13日前、昭和20年8月2日未明に
 米空軍のB29爆撃機180機の空襲を受け、約450名が死没、
 2,000余名が負傷し、旧市街地の約80%の家屋が焼失する
 被害を受けました。そのとき多くの市民が大和田橋の下に避難し、
 尊い命が助かりました。
 
 大和田橋の歩道上には、この空襲のとき透過された焼夷弾の跡が
 17箇所残っています。車道の部分は過去の補修により弾痕は
 残っていませんが、現在歩道上に残っている弾痕数から推測すると
 橋全体では約50戸以上の焼夷弾が投下されたと思われます。
 建設省相武国道工事事務所では、この大和田橋の補修工事にあたり
 焼夷弾の弾痕を保存し太平洋戦争の痕跡を永く後世に伝える
 ものです。

 弾痕の保存については、上下歩道上各1箇所は、透明板で覆い、
 他15ヶ所は色タイルで、その位置を示してあります。

  ~ 平成9年10月 建設省関東地方建設局
           相武国道工事事務所  より ~

 

大和田橋からの風景

大和田橋からの風景

 ☆前回の「大和田橋」に関する記事はこちら
  ⇒ 「浅川が流れる 八王子の橋」(大和田橋のお話)

富士森公園の歴史

 今年の桜も見事な咲きっぷりで綺麗でしたね。
 今年は例年になく寒かったせいか桜のお花見を少し長く
 楽しめたような気がします。
 
 桜の名所でもある「富士森公園」には桜の季節には毎年
 多くの人出で賑っています。人が集まるところには活気が
 あって良いですね。また、こちらの公園は体育館や陸上
 競技場、野球場としても多くの方に利用されています。

 こちらの「富士森公園」には戦没者もまつられているという
 のは初めて知りました。富士森公園の慰霊塔のお話です。
 学生の頃、梶井基次郎の小説で桜の木の下には屍体が埋まって
 いるという話を思い出しました。だから桜は美しいんだ。
 という仮想のお話。
 

 * * * * * * * * * * * *

 近代国家への道を歩き始めた明治時代。初めての対外戦争で
 ある日清戦争により、多くの命が奪われ、八王子でも76名
 もの尊い命が失われました。この戦争に寄る犠牲者を慰霊
 するため、南多摩部の部長を中心に招魂碑の建設が進められ、
 明治29年4月、富士森の地に「報国忠魂碑」が建てられ
 ました。さらに日露戦争では、214名もの方が犠牲となった
 ため、新たな忠魂碑も建てられ、富士森公園は戦争犠牲者の
 招魂の地となっていきました。
 こうした戦争による犠牲者を出しながらもわが国は、ついに
 アメリカとの戦争に突入し、敗戦の色が濃くなった昭和20
 年8月2日未明、八王子を襲った大空襲は、市民の尊い
 450人もの命を奪うこととなりました。その後、八王子市は
 明治以降に戦争犠牲者となった方を弔おうと昭和40年に
 慰霊塔を富士森公園内に建設。平成22年度までは、この
 慰霊塔の前で追悼式を執り行っていました。
 現在、追悼式は毎年4月に八王子駅南口のオリンパスホールで
 行われています。
  ~郷土資料館資料参考~

 * * * * * * * * * * * *

 花見やスポーツに訪れた際に、公園内に建つ慰霊塔に立ち寄って
 戦争の悲惨さを胸に刻み、平和に関して改めて考えてみる良い
 きっかけになるのではないでしょうか。
 
 平和を祈りたい気持ちになります。
 

 

 

八王子の千人同心

6年後の2020年に開催される「東京オリンピック/東京パラリンピック」。

50年前の東京オリンピックで、八王子市では自転車競技が行われ
海外の方との交流が盛んに行われたとのこと。
50年前ですね。映画の「ALWAYS」の情景が思い浮かびます。
その昔、鎖国をしていた江戸時代に海外諸国との交流の必要性を
説いた八王子の「千人同心」がいました。
18世紀後半、ロシアの接近を心配した幕府は、北方の警備を強化
していました。こうした状況の中、千人同心の松本斗機蔵(まつもと
ときぞう)は、海外事情に強い関心を持ち、八王子を訪れた北方探索
の第一人者の最上徳内(もがみとくない)から、最新の情報を入手
するなど、知識を深め、著書「献芹微衷(けんきんびちゅう)」を
記します。松本斗機蔵は、国防の大切さを訴えながらも和親外交を
交易問題を具体的に提言。「西洋諸国と積極的に付きあうべき」と
いうその主張は、当時の外交政策の一大転換を求めた注目すべきも
のでした。また、モリソン号が江戸湾(東京湾)に来航するとの
情報を得た松本斗機蔵は、幕府に打ち払いの強硬策をやめるよう
意見書を提出。千人同心の組頭という地位でありながら、海外に
視野を広げて見識を高め、幕府への提言を行った彼の業績は、
特筆すべきものです。そして、松本斗機蔵が唱えた外国との交流
という思想は、オリンピックやさまざまな場面で海外の方と交流
してきた現代に受け継がれているのですね。

~資料は郷土資料館より~

はちおうじ読書の日 八王子図書館

八王子 中央図書館

八王子 中央図書館

 10月27日は 「はちうじ読書の日」 ということで、八王子市が

 平成18年度に定め、これを記念にシンボルマークの鳥のるりちゃんも
 
 誕生したようです。

 読書の推進を呼びかける5つの標語「読書のすすめ」として・・・

  1.読書で、豊かな心をはぐくみましょう
 
  2.読書で、親子のふれあいを深めましょう

  3.読書に、生涯を通じて親しみましょう

  4.読書を、家庭・地域・学校が一体となり進めましょう

  5.読書に、図書館を市民の本棚として活用しましょう

 ・・・以上5つの標語が掲げられました。

 では、八王子の図書館の歴史を見てみますと、最初にできた

 図書館は、「八王子中央図書館」。

 「八王子中央図書館」は、西八王子駅北口から徒歩3分にあります。

 来年平成27年1月で満30歳になるそうですよ。

 もっと古いのかと思っていたら意外に30年前とは。

 昭和60年1月に 中央図書館が開館しました。

 そしてその昔、昭和47年に「八王子子ども文庫連絡協議会」が
 
 設立され、中央図書館よりも古くから子どもたちに本を

 手渡す活動がされていて、今では八王子市内に6つの

 会員文庫もあるそうです。

  * 南大沢4-21「ともだち文庫」

  * 南陽台2-9-14「南陽台こども文庫」

  * 恩方西学童保育所内「まつたけ文庫」

     ・・・・ ・・・・ ・・・・

 
 中央図書館が開館後、

 平成8年10月には「南大沢図書館」が開館。

 平成9年4月には「川口図書館」開館。

 平成11年10月、八王子駅北口クリエイトホールの中に

    「生涯学習センター図書館」が開館。

 平成18年10月に北野駅徒歩1分のスーパーアルプスが入っている

   きたのタウンビルの7階に「中央図書館北野分室」として開室。

 八王子市内には、5つの図書館、分室があります。
 

 (*^_^*) 秋の夜長のこの時期に、お近くの図書館や分室にお出かけ

 してみてはいかがでしょうか・・。 

  

子安神社 ~八王子市明神町~

子安神社

子安神社

   当社の一番近くにある神社、

   八王子市明神町にある子安神社です。

   こちらの神社は八王子でも最古の歴史をもつ神社。

   例祭日 は 9月20日 
 
   9月23日(祝日)は、『泣き相撲大会』が

   開催されるようです。

   古来より「泣く子は育つ」ということで

   子安神社で元気な泣き声を出して大神様に

   聞いていただくという神事です。

   当日10時から受付開始
 
   赤ちゃんの生まれ月によって受付時間が違います。

    ・10時~平成25年6月・7月・8月生まれ
    ・11時~平成25年9月・10月生まれ
    ・12時~平成25年11月生まれ
    ・13時~平成25年12月・平成26年1月生まれ
    ・14時~平成26年2月・3月生まれ
    ・15時~平成26年4月・5月生まれ
 
   ※ 祈祷料 5,000円
    (御祈祷・お相撲・泣き相撲限定土鈴のお土産付)

  
   
  * * * * * * * * * * * * *

   ★ 子安神社の歴史をみますと・・・・

   1200余年、青丹よし奈良の都は天平宝字3年、

   橘右京少輔なる者、時の帝の皇后の御安産祈願のため

   草創したと伝えられ、以後安産の神として近郷の崇敬は

   もとより、古来の武将の尊崇篤く八幡太郎義家奥州下降の砌、

   戦勝を祈念して欅十八本を奉納、これを船形に植樹した事

   により、以降この森を船森と称し、鎌倉時代末期には楠正成の

   居城として、難攻不落とされた赤坂城合戦の折の勇士として

   太平記の美分に綴られた、人見四郎入道光行寄進の神櫃があり、

   近世では徳川三大将軍家光以降代々の将軍家より、朱印を受けた

   事により、三つ葉葵を当社の紋にして使用しております。

   近くは明治5年、時の政府より村社に列せられ、さらに

   昭和18年郷社に昇格せられました。

   古来、八王子は素より多西郡と呼ばれた多摩川の西側の

   総鎮守として崇敬を蒐めております。

       ~ 子安神社の由来 子安神社より抜粋 ~

   
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 ★ 天平宝字3年(759年)淳仁天皇の皇后の安産のために
   創建された「子安神社」は、その昔、この周辺は、「船森」
   と呼ばれた森と湧水池で名高かい地域だったそうです。
   現在、子安神社の隣に「船森保育園」がありますが、この歴史の
   船森の名称をとったのですね。

 

 ≪ 子安神社 ≫

  「京王八王子駅」から徒歩約3分

  「JR八王子駅」から徒歩約5分

  TEL:042-642-2551
  
   

山車まつりのはじまり ~八王子まつり~

八王子まつり 2013年

八王子まつり 2013年

 昨日の八王子まつりの続きですが・・・

 八王子まつりといえば、今では山車のパレードが名物で、他県からも
 写真撮影をしにくるまで評判だそうです。

 私も素人写真を何枚も撮ってしまうほど、魅力的な山車です。

 さてさて、八王子まつりで「山車まつり」としての始まりは
 いつころからなのでしょう?

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 「 山車のはじまり 」

 甲州街道に面した旧市街地は、江戸時代には八王子(横山)十五宿と

 呼ばれ、商業地として発展していました。現在の16号を境に、東側は

 八幡八雲神社の氏子、西側は多賀神社の氏子地域に分かれていました。

 氏子とは、その土地の守り神をまつっている地元の人々のことをいいます。

 町の人々の力が大きくなるとともに、各町内では、競い合うように山車が

 作られるようになり、祭りの際に山車がひかれるようになりました。

 江戸時代の享保年間 1716年 ~ 1735年 から山車がひかれる

 ようになったといわれています。

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 山車の歴史は古いのですね。

 ★(山車の意味と役割)
  山車とは、高いところから訪れる神様を、お迎えして祭りの場に
  運ぶためのもので、美しく飾った依代〔ヨリシロ〕(神様がとどまるところ)を
  のせた屋台のことえをいいます。
  祭りのときには、神様と地域の人々が一体となって楽しみ、神様に喜んで
  もらおうということなのです。次第に山車そのものが祭りを盛り上げる主役に
  なり、さまざまに工夫され、祭りを彩るようになりました。