カテゴリー別アーカイブ: 八王子の歴史

八王子の歴史のことが分かります。

八王子まつりはいつから?

八王子まつり 2013年

八王子まつり 2013年

 今年も八王子まつりの日程が決まり、夏が近づいていることを知らせてくれます。

 今年 8月1日(金)・2日(土)・3日(日)の3日間 
  山車巡行、神輿渡御は2日と3日です。

 花火大会は7月26日(土曜日)
  富士森公園 富士森市民競技場にて

   * * * * * * * *

 ≪八王子まつりの歴史≫

  昭和36年8月26日 「3万人の夕涼み」とした市民祭が
 行われたのが始まりです。
 このころの八王子の人口はどんどん増えていて「八王子に生まれ
 育った人と新しく住民になった人々の結びつきを強めるとともに
 自分の住む土地のことをもっと好きになってもらおう」という
 願いのもと、開催されました。
  当時のお祭りは、富士森市民競技場での花火や、野外演奏会が
 中心でした。
  昭和39年(第4回)には、主な会場を甲州街道に移して
 パレードを最大に行うようになったそうです。

  (*^_^*) お祭りのお囃子が聞こえると、「夏」だなぁ、と
        感じます。

 

浅川が流れる 八王子の橋 その3

八王子市内の浅川が流れる橋の続きです。

「長沼橋」、「新浅川橋」、「大和田橋」
記事はこちら → 「 浅川が流れる 八王子の橋 1 」

「萩原橋」 はぎわらばし

・中野上町と元本郷町を結び、秋川街道が浅川を渡る橋。
 1901年(明治34年)に木造の橋が架けられました。
 1923年(大正12年)にそして、1931年(昭和
 6年)に橋を架け替えられ、1990年(平成2年)に
 現在の橋となります。
 現在の橋の新柱やガス灯のような照明に、この橋ができた
 明治の時代を感じさせます。
 また、橋が丸みのある太鼓橋になっているのも特徴です。
 これは、河川の条件を考え橋脚の数を減らしした為に
 橋桁が高くなり、対岸との整合性を図るためにこの形と
 なったそうです。
 長さ120m  幅15.8m

≪荻原橋の由来≫
荻原橋の南側に小さな公園があり、この中に1907年
(明治40年)に建立された近年碑が建っています。
1877年(明治10年)萩原彦七は小宮村(今の中野
上町)に八王子における製糸業の草分けである萩原機械
製紙工場を設立しました。橋といえば川原の中に板橋しか
なかった当時。私財を投げ打って1901年に木造の橋を
架けたのでした。功労者である萩原彦七の徳を讃えて、
「荻原橋」と名付けれらたそうです。

「鶴巻橋」 つるまきばし

・中野上町と元本郷町とを結ぶコンクリート橋。
 八王子市役所新庁舎の建設にともない1986年(昭和
 61年)に架けられました。
 八王子の歴史にかかわるテーマのブロンズ像8体が設置
 されています。橋の名は市民からの公募により名付けられ、
 鶴巻というのは、この橋の上流、かっての元八王子村に
 あった字名です。この付近も川遊びにちょうど良い場所で
 「つるまき」と呼ばれ親しまれていました。
 長さ160m 幅14.2m

浅川が流れる 八王子の橋 その2

昨日の八王子市内の浅川が流れる橋の続きです。

昨日の「長沼橋」、「新浅川橋」、「大和田橋」の
記事はこちら → 「 浅川が流れる 八王子の橋 1 」

大和田橋の向こうは・・・・

「浅川大橋」 あさかわおおはし

・大和田町と元横山町を結ぶ、JR八王子駅北口から北方に向かう
 中央通りを渡る橋。1973年(昭和48年)に大和田橋、
 暁橋の2橋の中間に「浅川大橋」が架けられたことによって
 交通の緩和に役立ち、その後バス路線も開設され、また
 ひよどり山通りも開通され、八王子インターや昭島方面へ
 のアクセスも便利になりました。
 以前旭町にあった八王子郵便局も「浅川大橋」を渡ってすぐの
 大和田町側に移転しました。
 長さ153.6m  幅18.7m

「暁橋」 あかつきばし

・暁長と元横山町とを結ぶ橋。1923年(大正12年)に
 木造の橋が架けられました。元横山町の橋のたもとに
 「暁橋架設費寄附芳名碑」「暁橋の碑」が建っています。
 浅川を挟む住民の熱意が実って完成された橋で、地域の
 発展に大きく貢献しました。
 1960年(昭和35年)にはコンクリート橋に架け替え
 られました。
 長さ122.6m  幅6.0m 

「浅川橋」 あさかわばし

・中野上町と大横町を結び、国道16号線が浅川を渡る橋。
 明治中旬頃まで橋らしい橋もなく、板橋をかけて通行して
 いたそうです。1901年(明治34年)に木造の橋が
 架けられ、1930年(昭和5年)に鋼工桁橋に架け替え
 られ、1963年(昭和38年)に現在のコンクリート
 橋になりました。
 長さ117.0m  幅24m

浅川が流れる 八王子の橋 1

浅川は数多い多摩川の支流のひとつで、日野市百草で多摩川に
合流しています。
全長約30.4Kmのうち、その流域のほぼ2/3が八王子市
域になります。
その浅川にかかっている橋に注目して、どんな歴史があるのかも
含め下流からのご案内です。

「長沼橋」ながぬまばし

・日野市と八王子市長沼町を結ぶ、浅川と湯殿川との合流点に
 架かる橋。1954年(昭和29年)に木造の橋が架けられ、
 1993年(平成5年)に現在のコンクリート橋に新しく変わ
 りました。
 長さ143.5m 幅12mの橋。

「新浅川橋」しんあさかわばし(八王子バイパス)

・大和田町と北野町を結ぶ、国道16号バイパスの橋。
 1985年(昭和60年)に架けられた橋です。
 長さ190.7m 幅16mの橋。

「大和田橋」おおわだばし

・大和田町と明神町を結ぶ、甲州街道が浅川に渡る橋。
 江戸時代、浅川は夏は飛石伝いに歩いて渡り、冬は
 板橋を仮設して渡ったそうです。
 1905年(明治38年)に木造の橋が架けられます。
 1927年(昭和2年)に八王子で最初の鉄筋コンク
 リートの橋が架けられました。
 そして、1941年(昭和16年)と1960年(昭和35年)
に改修されました。
 長さ121.1m 幅12mの橋。
 1985年(昭和60年)に架けられた橋です。
 長さ190.7m 巾16mの橋。

 *大和田橋のお話*
 大和田橋には、1945年(昭和20年)8月2日
 米軍の八王子空襲を受けたとき、大和田橋下に駆け込ん
 できた多数の人々を焼夷弾から守った歴史があるんだ
 そうです。その焼夷弾の跡は、1997年(平成9年)
 永久に保存されることになりました。

 大和田橋は八王子の人々の命を救ってくれた大切な橋と
 いうわけですね。そんな歴史ある橋を通っているんだな、 
 と、考え深くなりす。

 

大和田橋(明神町と大和田町を架ける橋)

大和田橋(明神町と大和田町を架ける橋)

大和田橋

大和田橋

松姫

ゆるきゃら 松姫

ゆるきゃら 松姫

こちら、八王子のゆるきゃらのひとつ、松姫マッピーちゃん。

松姫様は八王子の地に残った歴史上の人物です。

松姫様のおいたちから八王子へ移ってきた歴史を覗いてみます。。。

松姫は永禄4年(1561年)に古府中(今の甲府市)の
つつじが崎の屋敷で生まれました。父は戦国時代の武将の
一人で甲斐の国(今の山梨県)を中心に活躍した武田信玄で
母は油川信友の娘です。

永禄10年(1567年)11月、松姫が7歳の時に織田信長の
11歳の長男、織田信忠(幼名は奇妙丸「きみょうまる」)と
婚約しました。結婚のお祝いの品は帯や布地、織物、金・銀の
細工物、虎やヒョウの毛皮など豪華な品々がやりとりされました。
この時代の身分の高い人たちの結婚は「政略結婚」といって、
家同士の結びつきを強めるために本人の意思と関係なく親が
決めていました。結婚式まで相手の顔を見ないこともあった
そうです。

元亀2年(1571年)、松姫が11歳の時に母が亡くなり
翌年に「三方が原の合戦」の時に織田の軍団が武田と敵対し
ていた徳川の軍勢に加勢したため、武田家と織田家が敵・
味方に分かれてしまったため、松姫と信忠との婚約が解消さ
れてしまいます。
さらに、天正元年(1573年)4月には父・信玄が亡くなり
織田家は武田家を滅ぼそうと攻めるようになり、武田家が
滅亡する天正10年(1582年)1月下旬、松姫は、
留まっていた兄の仁科盛信の高遠城(たかとおじょう)に
織田軍がせめてくることの知らせに、兄の3歳になる姫を
連れて高遠城を逃れました。
その後、新府城に行って兄の勝頼の4歳になる姫と、人質と
して預っていた小山田信茂の4歳になる姫も加え、少ない
供を連れて逃げ延びて行きました。

高遠城(長野県高遠)から → 新府城(山梨県韮崎)→
入明寺(甲府市)→ 開桃寺(今の海島寺・塩山市)→
向獄寺(塩山市)→ 金照庵という古寺(八王子市上恩方)
まで、幼い姫たちを連れて逃げ延びてきました。

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり、
武田家を滅ぼした織田信長、信忠が亡くなり、その年の秋、
金照庵から心源院(八王子市下恩方)に移り、髪を切り、
尼さんになって、信忠をはじめ、武田家一族の人たちの冥福を
祈りました。

そして松姫さまは尼さんになって「信松尼」という名に変わります。
松姫22歳のことです。「信松尼」の「信」は、信忠の妻であるという
意味が込められていると伝えられています。

 *(手記は八王子図書館より抜粋)

滝山城と八王子城

八王子城跡地

八王子城跡地

八王子の歴史が大きく動いた戦国時代、滝山城は1521年に
多摩一帯を治めていた武蔵国の守護代大石定重によって
築城されました。しかしその後の1546年には定重の息子で
ある大石定久が北条氏に服従となります。
北条氏照を婿として迎え、事実上大石氏は北条市の軍門と
なり、多摩地方は北条市の勢力範囲となります。
「滝山城」は、小田原に本城を持つ北条氏の支城となり、
1569年に小田原攻撃に向かった2万もの武田信玄軍から
攻め込まれました。その戦いで、「滝山城」の防御態勢の
脆弱さが浮き彫りににされ、「八王子城」を築くきっかけと
なったと言われています。
「八王子城」は、戦国時代の終わりごろの1574年前後から
北条氏照によって築城が始まり、1587年に「滝山城」より
本拠地を移しました。こちらは、北条氏の城の中でも大きな
規模を誇った重要な山城だったそうです。
そんな「八王子城」も1590年6月23日に落城の時を迎え
ます。天下統一を進めていた豊臣秀吉の軍勢に加わった
1万5千人率いる上杉景勝の軍に攻められ、たった1日の
戦いで落城したそうです。両軍の死者数は約2500人、
負傷者は6000人に及んだ壮絶な戦いがこの地で行われて
いたのですね。

☆滝山城☆
 八王子市高月町

☆八王子城☆
 八王子市元八王子町3

平成18年4月に日本城郭協会より「八王子城」は
『 日本100名城 』に選定されました。
日本100名城には、世界遺産の姫路城、国宝の彦根城・松本城、また
東京都内では江戸城など、そうそうたる名城が選定されており、
八王子城は戦国の山城としての状態を良く残していることなどから
選ばれました。

◎平成24年10月にオープンしました『八王子城跡ガイダンス施設』
 
 国史跡八王子城跡は、指定面積159ヘクタールにも及ぶ広大な山城で、
 こちらに、八王子城の歴史や意義などを、訪れた方にわかりやすく
 解説するガイダンス施設がつくられました。

(開館時間) 午前9時から午後5時
(休館日) 年末年始(12月29日から1月3日。他に、臨時休館する場合があります。)
(入館料) 無料
(所在地) 八王子市元八王子町3丁目2664-2
( TEL ) 042-663-2800

文明開化の八王子

八王子の歴史ものがたり近世八王子に続きます。

幕末から明治維新へと、ふたたび変革の世となったとき、
八王子も大きく変貌しました。嘉永6年(1853年)の
ペリー来航をきっかけに、八王子鑓水の商人たちは外国
貿易の中心を担い、「絹の道」を通って八王子にもたされた
各地の絹織物や生糸を、開港したばかりの横浜港へ運んだ
とされています。
当時のん八王子の農家は養蚕業が盛んとなり蚕を飼うための
桑(くわ)を栽培し繭(まゆ)を生産していました。
農家にとって養蚕業、絹糸は大切な現金収入源でした。

 ⇒ 絹の道を歩いて こちらの記事もご参考に

近代思想を願った自由民権運動が全国を揺り動かしたところ、
また八王子にも多くの民権家が現れ、人々に新しい世の
到来を説いてまわったそうです。しかしまた、明治17年
(1884年)武相困民事件も起り、貧困と不正義に苦しめ
られる農民の姿もあったようです。
「繊維のまち」として発展を続けた八王子も明治30年
(1897年)には大火に見舞われてしまいます。
そして、さらに時代が進み、昭和20年(1945年)、
旧市域の9割以上を焼き、400名以上の死者を出すと
いった「八王子大空襲」の悲劇にも直面しました。
八王子市街の中心に位置する八王子駅は中央線・横浜線・
八高線が通っていたことで、アメリカからは東日本における
鉄道の重要都市と位置づけられていた軍需工場の労働者の
住民や疎開してきた人が多かったことも空襲の理由となった
とのことです。

そして昭和21年(1946年)終戦後、戦災都市復興計画
スタートのはじまりです。

近世八王子の歴史ものがたり

前回、八王子の先人たちが築きあげた八王子の様子から
戦国時代の中世の八王子の姿を見ていきました。

 * 前回の記事はこちら ⇒ 八王子歴史ものがたり その1

近世八王子では、
八王子城の落城は、また新たな八王子の誕生となります。
横山・八日・八幡の三宿へと城下の中心も移され、毎月
4日・8日には賑やかな定期市も開かれるなど、戦乱の
世の終わりと同時に、八王子の人々は活気に満ちた庶民
生活を展開するようになりました。
また同時に、徳川家康の手によって、甲州武士団が八王子
に移り住み、『八王子市千人同心』として町建設に重要な
役割を果たすようになりました。

近効農村で作られる八王子織物は、江戸市民のもてはやす
ところとなり、横山商人は幕府の御糸物御用を命じられる
ほど発展しました。しかし、一方では、時がたつにつれて
千人同心たちの困窮が目立つようになり、遠く北海道開拓
に出向くという出来事があったのもこの近世の時期であった
ということです。
  ~京王出版 タウンガイドブック抜粋~

★千人同心★
~八王子を守り幕府に尽くした千人同心の働き~
千人頭1家あたり10人の組頭と90人の平同心からなる
組織が「八王子千人同心」という。
これは徳川家康が江戸に入る際に組織され、半農半士の
武士集団で、関ヶ原の戦いを前にした時期にはその数が
千人以上になったという。
三代将軍、徳川家光が亡くなった後は、幕府からの「日光
火の番」を務めた。

~千人同心のゆかりの地~
◎「宗格院」(そうかくいん)
JR西八王子駅北口側から約8分くらいの場所にあります。
(千人同心組頭で蘭学者だった「松本斗機蔵」等の墓が
ある。浅川の氾濫を防ぐための石見土手もここにある。)

◎「興岳寺」(こうがくじ)
またさらに歩くこと約12分千人町1丁目にあるお寺。
(官軍「坂垣退助」に日光を明渡して、八王子で自害した
石坂弥次右衛門義礼の墓がある。)

◎「信松院」(しんしょういん)
西八王子駅南口から東にある台町3丁目の寺院。
(武田氏滅亡後に甲斐から八王子に逃れ、信松尼となった
武田信玄の娘、松姫が、晩年この地に草庵を結んだ。)

◎「真覚寺」(しんかくじ)/「高宰神社」(こうざいじんじゃ)
西八王子駅南口から約15分の万葉公園側の散田町5丁目の
お寺と神社。
(真覚寺は古くから「蛙合戦」で有名なお寺。本堂右手に
は千人同心が厚く信仰した高宰神社がある。

◎「興福寺」」(こうふくじ)
西八王子駅南口から高尾駅のに向かった東浅川町にあるお寺。
(千人同心組頭中村家などの墓がある。入口にある見事な
しだれ桜が素晴らしい。)

幕府からの拝領屋敷が建ち並んでいたという西八王子駅
近くの千人町や同心らが眠る墓地を訪ねて江戸幕府ととも
に生きた同心たちに思いを馳せて、尋ねてみてもよいかも
しれませんね。

◎「千人同心屋敷跡碑」
江戸時代、町の治安維持や将軍上洛のお供などに携わった
千人同心の屋敷跡碑が追分町交差点近くに建っている。

千人同心屋敷跡碑

千人同心屋敷跡碑

絹の道を歩いて 八王子の歴史

絹の道

絹の道

京王線北野駅、長沼駅から南の方へと歩き山を越えると北野台と
いう住宅地に入ります。その住宅街を抜けるあたりに「絹の道」の
碑が立つ大塚公園があります。ここから森林の中を約1Kmほど
続く道が絹の道。

絹の道案内図(看板)

絹の道案内図(看板)

絹の道は八王子市指定史跡となっています。
また、文化庁の「歴史の道百選」に選定されています。

(指定区間)御殿橋から大塚山公園(道了堂跡)
(指定年月日)昭和47年10月26日

安政6年(1859年)の横浜開港から明治はじめの
鉄道の開通まで、八王子近郷はもとより長野・山梨・
群馬方面からの輸出用の生糸が、この街道(浜街道)を
横浜へと運ばれた。
八王子の市にほど近い鑓水には生糸商人が多く輩出し、
財力もあって地域的文化も盛んとなり、鑓水は
「江戸鑓水」とも呼ばれた。
なお、この「絹の道」という名称は、地域の研究者が
昭和20年代の末に名付けたものである。
 ~平成5年5月31日 八王子市教育委員会より~

生糸商人が往来していた道が保存され、舗装路に出た
あとは、生糸商人「八木下要右衛門」の屋敷跡に建て
られたのが、絹の道入口近くある「絹の道資料館」です。

明治時代の養蚕農家の貴重な建物も見ごたえがあります。

【絹の道資料館】
*絹の道や製糸・養蚕に関する資料を展示。
 休憩コーナーもある
住所/八王子市鑓水989-2
電話/042-676-4064
開館時間/3月~10月 9:00~17:00
     11月~2月 9:00~16:30
休館日/月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
入館料/無料
駐車場/7台分有

絹の道資料館

絹の道資料館

八王子の歴史ものがたり

朝降り出した雪がとうとう・・・積もってきてしまいました。
八王子は山が多いので大通りでも坂道の雪道では車で走るのも怖いです。
さて、本日は車にチェーンをつけて帰れるか?それとも車を置いて
電車・バスで帰ることになるのか、この雪の降り方と帰る時間帯で
決めようと思っております。

前回の雪の時は車を置いて帰りましたが正解でした。
バスの運転手さんでさえ、坂道発進でタイヤが滑っていましたので。

八王子駅周辺の街中と私が住む山を越えた住宅地では同じ八王子
なのに天候の変化があります。
雪の時はもちろん、駅周辺の街中に比べて標高が高いこともあり
5cmくらいは積雪が違います。

そんな私は八王子の住民になってまだ12年目ですが、このような
大雪に遭遇したのは初めてで、雪に慣れない関東人にとっては
雪対策も慣れていなく、先日の大雪でやっと雪靴(雨靴を兼ね
て)を購入しました。雪かき用のスコップはまだ購入していない
ので、通常の大型スコップで雪かきをしました。
こんなにしょっちゅう降る様だと雪かき用スコップも買っておか
ないと、と思いました。

45年ぶりの大雪だったんですね。

45年前の八王子はどんな街だったのかな?

12年の住民としては浅く、まだまだ八王子の知らないことも多く
八王子の古く歴史を少し訪ねてみようと思います。

「八王子の歴史ものがたり その1」

紀元前1万年頃、八王子の先人たちは、タテ穴住居に住み、山川に
鳥獣や魚を求め、大胆な縄目模様をつけた土器を数多く作りだして
生活をしていた。
そして人々が定住して農耕に従事するようになると、大きな集落が
発生し、弥生式土器と呼ばれる繊細な技巧をほどこした土器を用い
いて生活をし、文明を誕生させるようになったという。

日本最初の統一国家、大和朝廷の勢力が関東に及ぶようになると、
八王子は朝廷の屯倉(みやけ)となり「多摩部」となるとともに
大陸の新文化を伝える帰化人たちの姿も見られるようになった。
万葉集に「多摩の横山」と詠われたのが当時の八王子である。

奈良、平安と続いた日本の貴族社会は武士の出現によって大きな
変化を見せ、源平の戦いで源頼朝についた武蔵横山党は、八王子の
支配者であった。やがて鎌倉時代となり、その横山党も、健保元年
(1212年)、北条氏との和田合戦で敗れ、横山庄の支配権は大江
広元に、片倉城を築いた長井氏の手へと移る。
室町時代になるお、大石氏の支配となり、浄福寺城、高月城、滝山城、
永林寺と新城がつぎつぎと建てられ、戦国の世に備えられた。
天文15年(1546年) 大石氏はついに北条氏に降伏。
八王子城が出現したものの、天正18年(1590年) 前田・上杉らの
豊臣軍の攻撃で落城した。
横山党から北条支まで荒々しい武士たちが次々と通り過ぎたのが
中世八王子の姿であった。そのような戦いの時間の中でも、
八王子の人々は産業と文化をたくましく発展させていった。
  ~京王出版 タウンガイドブック 抜粋~

*万葉集* 作者:宇遅部黒女(うぢべのくろめ)
 赤駒を山野にはやし、捕りかりて、多摩の横山徒歩ゆか遺らむ
(あかこまをやまのにはやし、とりかりて、たまのよこやま
 かしゆかやらむ)

 (意味)
 赤駒(馬)を山野に放って、捕まえられず、多摩の横山を
 徒歩で行かせなければならないとのこと

次回は近世八王子を覗いてみたいと思います。