八王子の歴史ものがたり近世八王子に続きます。
幕末から明治維新へと、ふたたび変革の世となったとき、
八王子も大きく変貌しました。嘉永6年(1853年)の
ペリー来航をきっかけに、八王子鑓水の商人たちは外国
貿易の中心を担い、「絹の道」を通って八王子にもたされた
各地の絹織物や生糸を、開港したばかりの横浜港へ運んだ
とされています。
当時のん八王子の農家は養蚕業が盛んとなり蚕を飼うための
桑(くわ)を栽培し繭(まゆ)を生産していました。
農家にとって養蚕業、絹糸は大切な現金収入源でした。
⇒ 絹の道を歩いて こちらの記事もご参考に
近代思想を願った自由民権運動が全国を揺り動かしたところ、
また八王子にも多くの民権家が現れ、人々に新しい世の
到来を説いてまわったそうです。しかしまた、明治17年
(1884年)武相困民事件も起り、貧困と不正義に苦しめ
られる農民の姿もあったようです。
「繊維のまち」として発展を続けた八王子も明治30年
(1897年)には大火に見舞われてしまいます。
そして、さらに時代が進み、昭和20年(1945年)、
旧市域の9割以上を焼き、400名以上の死者を出すと
いった「八王子大空襲」の悲劇にも直面しました。
八王子市街の中心に位置する八王子駅は中央線・横浜線・
八高線が通っていたことで、アメリカからは東日本における
鉄道の重要都市と位置づけられていた軍需工場の労働者の
住民や疎開してきた人が多かったことも空襲の理由となった
とのことです。
そして昭和21年(1946年)終戦後、戦災都市復興計画
スタートのはじまりです。